キャリアの悩みから、移住計画がはじまった
JR湘南新宿ラインで小田原方面へ向かい、平塚駅を過ぎたあたりから、
車窓の景色が一気にのどかになる。
「大磯に来ると、時間の流れが変わる」
湘南に暮らす人たちのあいだで、よく聞く言葉だ。
2021年に夫婦で大磯町に移り住んだ西野知佳さんもまた、
初めてこの駅に降り立った瞬間、理由のない確信のようなものを覚えたという。
「駅を出たときに、『ああ、ここ好きだ』って思ったんです。
この街と気が合う感じがしました」
現在はフリーランスで広報やブランディングに携わりながら、
大磯町で小さな宿「たゆたう」を営んでいる。
移住の背景にあったのは、30代を迎えた頃のキャリアへの迷いだった。
星野リゾートに新卒入社し、西表島、軽井沢、北海道と各地を巡り、
本配属となった熱海では、宿泊プランの企画や広報に携わってきた。
同じ職場で出会ったパートナーと結婚した後は、
夫の勤務地だった静岡県の伊東に暮らしていた。
仕事は充実していた。
けれど、コロナ禍によって宿泊業は大きな影響を受け、
これまで当たり前だった価値観が静かに揺らぎはじめた。
「自分にとっての安定は、大きい会社に勤め続けることではないのかもしれない、と思ったんです」
オンラインでの学びや働き方が広がり、
場所に縛られない生き方が現実味を帯びてきた時期でもあった。
環境を変えるなら、今かもしれない——。
そんな思いが、少しずつ形になっていった。

湘南をパッと思い浮かべたのは、
茅ヶ崎で結婚式を挙げた思い出があったから。
準備のために何度も通ったこの地域には、すでにどこか親しみが芽生えていた。
移住先を探す中で、真鶴の小さな宿を訪ねたとき、
オーナーから「ふたりには、大磯が似合いそう」と勧められた。
そのときに初めて知った街だった。
「大磯は、自然もあるけれど、どこか都会的なエッセンスもあって。
とても落ち着く雰囲気だけれど、閉じていない。すごくいいバランスの街だと思いました」
三角屋根の駅舎にひとめぼれ
はじめて大磯駅に降り立った日、西野さんはすぐに気に入ったという。
三角屋根の小さな駅舎。
どこか懐かしい空気をまとった駅前の風景。
派手さはないけれど、こじんまりとして静かな温度を持つ街並み。
その穏やかさに触れたとき、
西野さんの中で「ここに住みたい」という気持ちは、とても自然に固まっていった。
一方で、料理人を目指していた夫・聡さんもまた、働き方に悩んでいた時期。雇用のなかで経験を積むか、東京で料理の修行をするか、あるいは、自分で場をつくるか…。
答えが出ないまま時間が過ぎるなか、
大磯で暮らしながら別の土地で店を営む人と出会う。

「働き方って、ひとつじゃないんだと思えました。
いくつかを組み合わせれば、自分たちなりの形がつくれるかもしれないって」
2021年の夏。
日当たりのいい部屋を見つけ、ふたりの大磯での暮らしがはじまった。
季節とともにある暮らし
移住にあたって、夫婦で大切にしたいと話し合ったことのひとつが、
地域との関わりを持つ暮らしだった。
「コミュニティがある街で、自分ができることを発揮しながら、地域で役に立つことがしたいと考えていました」
西野さんはフリーランスとして働きながら、
地域イベントの運営やコミュニティの活動も手伝っている。
大磯では、自然や季節の移ろいに目を向けることが、
特別なことではなく日常として息づいている。
味噌づくり、梅仕事といった、季節の手しごとの時間。
「今度やるからおいでよ」と声をかけられ、気づけばその輪の中にいる。
「丁寧な暮らしって、憧れはあるけれど、どうしたらいいか分からなかった。
でもここでは、少しずつ自然に近づいていく感じがあります」

小さな宿「たゆたう」がひらく時間
2023年秋、西野さんは民泊の宿「たゆたう」をオープンした。
木の温もりに包まれる室内には、地域のつくり手による照明や器が並ぶ。
暮らすように滞在して、この街の呼吸を感じてもらうための場所だ。
海外からのゲストも多く、街を一緒に歩く時間も大切にしている。
桜の季節に、長期滞在していた家族と湘南平へ登った日のこと。
シートを広げ、桜を見ながらおやつを分け合う。
ただそれだけの時間を、心から喜んでくれたという。
最近では、「映画『PERFECT DAYS』のようなお部屋」という感想も嬉しかったのだとか。
「ここでは、自分のための余白の時間を過ごしてもらいたい。日常を離れてリセットするには、大磯はぴったりな場所だと思います」
やさしさが循環する街で
大磯には、小さな挑戦をそっと応援してくれる空気がある。
夫が飲食店を間借りして自分の料理をお客様に届ける場を得たこと。
宿の宿泊者だった人がその後移住して、焼き菓子づくりをはじめ、やがて仕事へつながっていったこと。
どれも特別なできごとではなく、
この街では自然に起こる流れのひとつのように思える。
「前は、『もっと成長しなきゃ』という焦りがありました。でも、大磯に来て、今はとてもリラックスしていて。力を抜いているほうが、いい流れが向こうから来てくれる気がするんです」
いつか夫婦でオーベルジュを開きたい。
その夢に向かいながら、日々の暮らしを重ねていく。
自然の豊かさと、都心へつながる距離感。
その絶妙なバランスのなかで、今日もまた、静かな時間が流れている。

Interview / text
西谷 渉