葉山時間がよく似合うコーヒー店
「逗子や葉山のあたりは、時間の流れがゆるやかで、人がやさしい。
海や山が好きだったり、自然に関心があったり。住んでいる人たちに、どこか共通点がある気がします」
そう穏やかに話すのは、葉山・森戸海岸のほど近く、焙煎機の音が静かに響く「inuit coffee roaster(イヌイットコーヒーロースター)」店主の乾智彦さんだ。
海岸回りのバス通り沿いにある、ブルーの看板が目印のコーヒー焙煎所。
深煎りを中心に、スペシャルティコーヒーを自家焙煎で届けている。
乾さんと葉山との縁は、学生時代にさかのぼる。
海が好きで、環境にも関心があったことから、大学では海洋学を専攻。キャンパスが藤沢だったため、フィールドワークで葉山や藤沢の海に通うことが多く、このあたりは当時から馴染みのある場所だったという。
卒業後は住宅系の専門新聞社で記者として働き、その後リサーチ会社へ。企業の市場調査やマーケティングに携わるなか、「いつか自分も形のあるものづくりをしてみたい」という思いが芽生えていった。
転機となったのは、社会人を10年間ほど経験した後に出た、1年間ほどの海外放浪の旅だった。アジアを中心に各国を巡り、価値観も生き方も異なる人たちと出会うなかで、学生時代から胸の奥にあった「社会にとって意味のある仕事をしたい」という気持ちが、ふつふつと湧いてきたという。
「人の幸せにつながること、世界に少しでも還元できること。その軸で、次の仕事を考えたいと思ったんです」
コーヒー豆で、社会をもっと良くしたい
旅の途中、友人に誘われてカンボジアの学校建設を行うNPOの活動を手伝った経験も、乾さんの背中を押した。その延長線上でたどり着いたのが、コーヒーだった。
「コーヒーは、環境や生産地の問題とも深くつながっているし、何より自分が好きなもの。
これなら、これまでの経験も生かしながら続けていけると思いました」
帰国後は、資金を貯めながら、スペシャルティコーヒーについて本格的に学ぶ日々。
世田谷の堀口珈琲のセミナーに通い、研究所の活動にも関わりながら知識を深めていった。乾さん自身、スペシャルティコーヒーの品質を国際基準で評価できる「Qグレーダー」の資格も持つ。

「スペシャルティコーヒーは、“おいしさ”で正しく評価される仕組み。その評価が、生産者の生活や、環境を守ることにもつながっていく。そこにすごく納得感がありました」
友人に導かれた、葉山の海辺の物件
いよいよコーヒー屋を開く準備ができた頃、店を構える場所として思い浮かんだのが、学生時代に親しんだ葉山だった。
当時、乾さんは山登りに夢中になり、アフリカ最高峰のキリマンジャロに登ったこともあるほど。山歩きしながら、きれいな景色を見るのが好きだった。
葉山なら、海も山もあり、東京にも無理なくアクセスできる距離感。さらに同時期に、学生時代の友人夫婦が葉山で飲食店を開いたことも後押しとなり、縁あって今の物件と出会った。
2017年に、「inuit coffee roaster」をオープン。
住まいは、鎌倉・二階堂の山の上に構え、店も家も、どちらも自然に近い暮らしがはじまった。
「葉山の家も探したけれど、物件が少なくて…。ちょうどいい家を鎌倉の二階堂に見つけたので、そこに決めました。お寺巡りも好きだし、鎌倉にも小さいハイキングコースがけっこうある。今は犬を飼っていて、家の裏から山に登れたり、葉山の店からはすぐ海に行けるので、犬も楽しそうに走ります」
交通の便が多少わるくても、山の上の家を選ぶというのは、自然に囲まれた静かな場所が好きなのだろう、と想像していたら、それだけでもないようだ。万が一、葉山の店舗で焙煎できなければ、山の上や丘の上の家なら、煙の心配もなく、自宅に焙煎機を置けるだろうと考えたのだとか。
「休みの日は、家でゴロゴロしています。庭でハンモックに揺られたり。広い庭があって、そこにウッドデッキをつくって、焚き火をするような生活に憧れていました」
鎌倉の裏山と、葉山の海辺と
店をはじめ、暮らしも仕事も湘南に根づいてから、乾さんの生活リズムにも変化があった。
現在の営業時間は、11時から18時まで。以前のように深夜まで働く生活から一変した。

「ここで暮らしながら商売をする、というのもひとつのコンセプトなんです。だから、東京に出て、がむしゃらに広げていくのはちょっと違う。この場所に根を張って、いかに効率よく、楽しく仕事をするかを考えています」
湘南で暮らしはじめた前後で、変わったと感じることについては、次のように話してくれた。
「最近は、もう全然電車に乗らないし、車で出かけたとしても、この辺界隈だけですね。犬を飼って、さらに行動圏が狭くなったけれど、鎌倉の裏山と葉山の海辺を歩いてるだけで十分に楽しい」
難点を強いてあげれば、道が狭いことと、夏は観光客が多いので、車が混むことくらいだという。
「一応、コーヒー屋だから、お客さんを待たせちゃいけないと思いながらも、そんなに急いでる人もいないしね(笑)」とお茶目に付け加えた。
暮らしのそばにある、一杯のために
店に並ぶコーヒー豆は、常時20種類ほど。
深煎りを中心に揃えているのは、昔ながらの喫茶店巡りが好きだった乾さんのセレクトだ。
「深煎りの魅力を、スペシャルティコーヒーで、よりおいしく表現したいと思っています」
もうひとつ大切にしているのが、「家で飲むコーヒーのおいしさ」を伝えること。
サラリーマン時代に、仕事の合間に喫茶店を数件まわり、コーヒー代だけで毎日2千円を超えていたという。だからこそ、コーヒーは“外で消費するもの”ではなく、“家の時間を豊かにするもの”であってほしいと思っている。
「コーヒー豆を買って、家で淹れるほうが、絶対においしい。家の暮らしが、もっと楽しくなると思うんです」
鎌倉の裏山と、葉山の海辺。そのどちらもが日常の延長線上にある暮らし。
「自然と遊びながら、自然と寄り添って何かをしたい人には、葉山は本当にいい場所だと思います」
旅人のような佇まいと、凪いだ海のような空気をまといながら、乾さんは今日も淡々と豆に向き合っている。

おすすめの一品「コスタリカ・ラ・リア」
Interview / text
西谷 渉
Photograph
中村ナリコ